愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
という言葉が表す通り、歴史を学び教訓を生かすことは現代でも必要な場面が多々あります。
今回は日本一メジャーな戦国武将、織田信長が行った「移転」にスポットを当てたいと思います。
織田信長はオフィス移転も天才的だった?
戦争や経済の手腕で有名になっている信長ですが、当時のどの大名よりも、本拠地を移転させている、移転の名手なのです。
織田信長の居城として有名なのは「安土・桃山時代」と時代名にもなっている安土城ですが、安土城に至るまで、いくつもの城を転々としています。
信長が生まれたのは、諸説あるようですが、現在の愛知県稲沢市にある勝幡城という城が有力です。その後幼くして那古野城に移り、家督を相続し20台前半まで過ごします。
那古野城、清州城への移転で盤石化
尾張一国を統一してからは、「清州会議」で有名な清州城に移ります。
ここまでは織田家を盤石とするための変遷であり、同じ尾張国内の自然な移転でしょう。
しかし、美濃の斎藤氏と交戦状態となると、清州城よりも美濃に近い小牧山城に本拠地を移します。一国の攻略の為本拠地を移すというのは異例のことで、家臣団にも猛反対されながらの移転だったようです。
戦略的な小牧山城への移転、聖域なき岐阜城への移転も
美濃の攻略に成功すると、今度は美濃国内の岐阜城に引っ越します。獲得した領地に本拠地そのものを移すということもかなり稀です。
通常戦国大名はどれだけ領地を増やしても、その本拠地はなかなか替えません。
武田信玄も上杉謙信も北条氏康も、どれだけ拡大しても、それぞれ甲斐のトラ、越後のリュウ、相模のシシなのです。
徳川家康が浜松から江戸に拠点を移したのも、秀吉の命令があって渋々のことです。
躊躇なく本拠地を移していくところにも、信長の常人離れの才覚を感じます。
王道の二条城から、利便性の安土城へ
岐阜城を拠点として拡大した信長は、ついに京都へ上洛を果たします。
この際に京都に二条城を築城し、拠点とします。
1576年、最後の居城である安土城へ移り住みます。
安土城を築城した理由は、琵琶湖の水運を利用できること、当時的の多かった北陸から京都への街道に位置していたためと言われています。
1582年、本能寺の変により信長は生涯を閉じますが、海外との貿易の要所として、大阪に移転をする計画があったとのことです。
当時、戦国武将と土地は密接に結びついており、拠点を移すということは簡単なことではなかったはずです。
それでも躊躇なく思い切った本拠地の移転を行ったことが、織田信長の爆発的な勢力拡大の背景にあったのです。
今も昔も長期的な視野が成功のカギ
当時も今も、本拠地の移転はコストも手間もかかるため、なるべく回数を抑えたいことは間違いありません。
それでもなお、それに勝るメリットがあるのならば、思い切った決断が必要です。
戦略的な移転計画の参考として、織田信長に学ぶことがあるかもしれません。
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